「教える」というのはなんでもやってあげることではありません。自分でできるようにしてあげること、そして「できるようにしてあげたい」気持ちを持つことが大切だと思っています。

 ちょっとやれば出来るだろうこと、ちょっと考えればわかるだろうことでも、すぐに聞いてくる子がいます。聞いてくるというよりは、頼ってくる子がいます。きっと大人に聞けば答えがすぐにわかるということを知っているのでしょう。聞ける子はまだよくて、困った顔をして私を見てアピールしてくる子もいます。

 そんな時、私は気づかないふりをします。そうすると自分で考えて自分で行動して意外と解決できてしまうことが多いです。このやり方が常に正しいとは思いませんが、これも一つの教え方です。

 もちろん、自分でやってもできないこともありますし、知らなければできないことも沢山あります。そのようなケースでは初めの何回かは教えます。が、聞けば教えてくれると思われると人を頼りにしすぎて成長できなくなるので、最後は「間違えていいからやってごらん」と伝えます。それでも、観察はしています。観察を通して何が分かっていないのか、何ができていないのかを理解するように努めています。

 例えば、毎回自分の靴がどこにあるのか分からなくなっていた子がいました。最後はいつも自分で見つけられていたので、すぐに学ぶだろうと思っていましたが、いつまで経っても自分の下駄箱の位置が覚えられません。覚えようという意思が見られませんでした。そこで、「右下」というキーワードを考えてあげました。すると次の日から簡単に自分の靴を見つけられるようになりました。

 他にもこんな例があります。アルゴという並んでいる数字を推理するゲームをやっているときのことです。毎回「どっちが小さい数字でどっちが大きい数字?」と聞いてくる子がいます。このケースでもはじめのうちは教えてあげています。1回2回で覚える子は稀だからです。でも、他の子が覚えたのにまだ聞いてくるということは、その子に覚える気がなく「聞けばいいや」と安易に思っているのではないかと疑います。そんなとき「どっちが小さい数字かはカレンダーを見ればわかるよ」と教えてあげます。教えてあげても、また「どっち?」と聞いてきたら「なにを見たらいいんだっけ?」と聞き返します。そうしているうちに、人に頼らなくても自分でできるようになっていきます。

 勉強をしているときに答えを見ては困りますが、日常生活の中で何かを見てやることは決して悪いことではありません。生活の知恵と言えるでしょう。実際に、しっかりしている子を見ていると、何を見ればわかるということをしっかり把握していて自ら確認しています。本当に感心させられます。

 大人は決して子どもの召使いになってはいけません。ご主人様は上手くできなかったり、失敗してしまうと、「ママのせいでできなかった!」「パパが何もしてくれなかったから!」と言って召使いのせいにします。