小学1年生の「いま」出来ているかどうかなんて、ほとんど関係がありません。出来ることが少ない子の親には「大丈夫です。どの子の能力も大して変わりません」と伝えています。幼稚園、保育園等での学びの形もバラバラなのだから、差があるのは、というより、違いがあるのは当然です。「いま」勝負が終わったのではなく、「いま」から長い人生の勝負が始まるのです。

 考える能力は誰にでも備わっています。せっかく良いものを持っていても、大事にしまっていては磨くことができません。1年生4月時点で多少劣っていたとしても、その後、考える力を身につければ、どうにでもなります。

 ここまで私が子供たちを見てきて感じるのは、考えることとは習慣に近いということです。考え慣れている子は上手に考えられます。考え慣れていない子は考えるのが下手です。小学校入学時点で、考えるのが上手下手はあります。小学校入学まで考える機会が少なかったとしたら、急に上手に考えられるはずもありません。何もしてないのに、出来るというのは幻想です。

 考える習慣がない子に考える習慣を身につけさせるのは、一朝一夕ではいきません。家庭内に子どもに考えさせる習慣がないからです。以前なかなか漢字を覚ようとしない子がいました。「漢字、覚えなくていいの?」と訊いたら「うん、パパが覚えてるから大丈夫」と答えてくれました。なんでも、パパとママがやってくれるようで、自分で考えたり判断するのが下手でした。別に、能力がないわけではありません。自分でやる必要がなかっただけなのです。待っていたら何でもやってくれるのであれば、その子にとって、ベストな選択は何もせず待つことです。楽をすることが習慣になってしまっただけの話です。

 さて、いま、ほかの子たちが帰った後、考える力を養うために見てあげている子がいます。半年前まで、ご両親が「うちの子は覚えられない」と考えていました。覚えられない以上に問題だと私が思っていたのは、間違えることが出来なかったことです。自分の考えに自信がなかったのです。「間違えていいから自分の答え(考え)を言ってごらん」と伝えても、決して間違えることができませんでした。要するに、100%自信をもって「覚えていること」しか答えられなかったのです。間違えていいと言っているのに、ずっと押し黙って時間ばかりが経過していきました。19:00以降にやっているのに、20分30分待つことはざらでした。それでも、毎回、1回間違えることができると、次はすぐに間違えることができました。そして、嬉しそうに帰宅していきました。でも、翌日になるとまた逆戻りです。

 その子が、最近、ようやく蛹から蝶になろうとしています。まだ、たまに「こうかなあ?」と私の顔を見て合っているかどうか確認してきます。私は表情を見られないように顔を下に向け、「そう思うなら、そう書いて」とだけ返します。まだ5分ほど思考停止することはありますが、思考停止してしまう時間がずいぶん減ってきています。「自分の答えを言っていいんだ」ということが分かってきたみたいです。お父さんにも後ろで見てもらっています。考える習慣を手に入れつつある我が子を見て、「子どもたちの能力に差がない」というのは慰めでも何でもなかったのだと理解してくれていると思います。「私もこんな風に教わったら、もっと出来るようになっていたでしょうね」とおっしゃってくださいました。お世辞かもしれませんが、とてもうれしい一言でした。とはいえ、私がやっているのは、考えなければならない環境を整え、間違えられたら褒めているだけです。