考えることってきっと楽しい。でも、考えさせられると辛い・・・。子供も大人も同じなんじゃないかと思います。

 考えることを重く考える必要はないと思います。◯◯ごっこをするだけで既にものすごく考えています。「あのとき、◯◯になっていたら炭治郎はどうしたと思う?」「なんで、長男なのに太郎じゃなくて、炭”治”郎?」という会話は、もう立派な思考だと思いませんか?勝手に子ども同士で楽しそうに思考(会話)しています。

 こうした楽しい思考の延長線上に勉強があるんだと思います。考えること、頭を使うことって純粋に楽しいんだと思います。

 一方、遊びの中で十分な思考をしていない子がいきなり「どうして◯◯なんだろうね?」と訊かれて、答えられるでしょうか?たいてい「知らない」と答えます。そうなんです。彼らは普段の生活で考え慣れておらず、面倒くさい勉強のときだけ考えさせらて来ているので、考えることは億劫なことだと捉える傾向があります。考えることを遊びの延長ではなく、遊びとは別の勉強として捉えるので「(教えてもらってないから)知らない」と答えます。

 ほとんどの親が大学を卒業して、知識人になっています。それ以上に、ほとんどの親が知識を文字通り“手”にしています。知識は常に右手の中にあります。子供が抱く疑問には、10秒で何でも答えることができます。しかし、教育テレビなどを見ていると「この後はみんなが考えるカラス!」などと言って答えを教えず、子供に考えさせようと工夫しています。答えを知ることは大して大事ではありません。“自分なり”の答えを出すことが大切なのです。ボール投げが段々上手にんるように、自転車に少しずつ乗れるように、考えることも少しずつ上達します。

 親に訊けば答えがわかると思っていたら、子供は考えなくなります。生活の中で様々なことに気づき少しずつ答えに近づいていく。結びついていなかった事柄が少しずつつながっていく。そういった経験を重ねることで、考えることが楽しいと思えるようになっていくのではないかと思っています。逆に、考えているからこそ、物事と物事のつながりに気づけるのだということは、子どもたちの様子を見ているとよく分かります。

 写真は群馬で見たコスモスとアサギマダラです。この蝶々、ひらひらと紙飛行機のように舞うのですが、2000kmも旅をする渡り蝶です。すごいですね!鳥でもないのに、どうして旅をするのでしょうね!