お話を聴く(絵本の読み聞かせなど)のが楽しい子とそうでない子がいます。どうして楽しめる子と楽しめない子がいるのか、色々と観察しています。もちろん、好みもあるとは思いますが、本当に楽しめる子はどんなジャンルも楽しめているようにも感じます。

 楽しめていない子はたいていどんな話だったのかも分からないケースが多いのです。楽しめていない子の中にも、どんなストーリーだったのか絞り出せる子もいます。つまり、お話の内容自体はだいたい掴めていても楽しめない子もいるのです。

 そこで大切になってくるのが、「不思議」と思う気持ちなのではないかと最近強く感じています。「不思議だな」「なんでだろ?」「あれ?」などの心の引っかかりです。自然と触れる機会が減り、何をやっても当たり前になり疑問に感じる機会自体が少ないように思います。トゥモローに通っているお子さんのご父兄を見ていると、「バカなことを言わないの」とか「当たり前でしょ」ということを言う人は少ないように感じていますが、スマホが手のひらにあるとすぐに答えが出てしまって、子どもにとっては「不思議」を実感し、わくわくする時間的余裕がないのではないかと感じます。

 さて、『名前を変えた小僧さん』という話があるのですが、耳に入った言葉をすべて大人が作った「(結果もすでに決まっている)当たり前」として聞いていては、不思議さをなかなか感じにくいように感じます。「なんで、『ぱた』『ふう』『うまい』なんて変な名前に変えてもらったんだろう?」と感じることが出来れば、お話を聴きながら「そっかー、そういうことか!」と納得感があるはずなのです。

 『名前を変えた小僧さん』を聞かせた後に、「なんで、変な名前に変えてもらったんだろう?」と確認をすると少し前までなら答えられなかった子が、自分の答えを言えるようになっていて成長を感じました。嬉しかったのですが念のために「質問される前から考えていた?」と確認すると、それはしていなかったそうです。考える力は着実についてきているのですが、自分で自分に質問をしないと(不思議に思わないと)考える力を発揮する機会がなくなってしまいます。

 ただし、「不思議だと感じなさい」と言われても、子どもには分かりません。どのタイミングで感じるのかは言葉ではなかなか教えられません。だからこそ、絵本の読み聞かせをする時にお父さんお母さんが「不思議だね」を言葉にしてあげるのです。「どうなるんだろう?」「どうしてなんだろうね?」「あれれ?」などという一言でちょっと飽きてしまっていた興味も復活します。テレビを観ていても同じことは出来ます。街を歩いていても出来ると思います。それが「不思議の種蒔き」です。

 『子どもは40000回質問する』という本の中でも、

「母親からたくさんの質問をされる子供は、自分からもたくさんの質問を発していた。つまり、質問をするという行為は相手に伝染することが明らかになった」

「親が言葉を管理のための手段としてではなく認知的探索の手段として用いるようすを見ていた子供たちは、そうした言葉の使い方をまねることが多かった」

という記載がありました。子どもは親に言われたことはやりませんが、親の真似は無意識にします。「木を植えるのに最良の時期は20年前でした。2番目に良い時期は今です」という中国のことわざがあります。種蒔きをし忘れていたら、今からやればいいのだと思います。童心に帰って我が子と一緒に「不思議」を集めてみましょう!必ず「不思議」の見つけた方を身につけてくれるはずです。